魚沼は山紫水明の地として名を馳せており、多くの文人墨客(ぶんじんぼっかく)が訪ねて来ています。
それらの中から、三人の作家と魚沼市を舞台としたその作品を紹介し、作家の目から描かれた魚沼市の姿を訪ねてみます。
川端 康成
「雪国」に描かれた小出の雁木(がんぎ)と尼僧(にそう)の托鉢(たくはつ)
「雪国」・・・親譲りの財産で暮らす島村は、雪深い温泉町で芸者・駒子と出会う。-人の世の哀しさと美しさの極致を描いた不朽の名作。
ノーベル文学賞を受賞した川端康成の小説「雪国」には、小出の雁木通りの描写が出てきます。川端は、昭和10年頃、越後湯沢の髙半旅館主人高橋半左衛門の案内によって小出を訪れたとのことです。
それでは、しばし川端文学の世界を訪ねてみましょう。
同じ雪国のうちでも駒子のいる温泉村などは軒が続いていないから、島村はこの町で初めて雁木を見るわけだった。もの珍しさにちょっとなかを歩いてみた。古びた庇の陰は暗かった。傾いた柱の根本が朽ちていたりした。先祖代々雪に埋もれた鬱陶(うっとう)しい家の中を覗(のぞ)いてゆくような気がした。
うどん屋に入った島村の目に、尼僧の托鉢姿が映ります。それは井口新田にある尼僧学林の尼さんたちの姿でした。
うどんやは川岸で、これも温泉場から流れて来る川だろう。尼僧(にそう)が二人づれ三人づれと前後して橋を渡って行くのが見えた。わらじ履きで、なかには饅頭笠(まんじゅうがさ)を背負ったものもあって、托鉢(たくはつ)の帰りのようだった。烏(からす)が塒(ねぐら)に急ぐ感じだった。
「尼さんがだいぶ通るね?」と。島村はうどん屋の女にたずねてみた。
「はい、この奥に尼寺があるんですよ。そのうち雪になると、山から出歩くのが難渋になるんでしょう。」
橋の向こうに暮れてゆく山はもう白かった。
さらに鈴木牧之著「北越雪譜」の縮織り(ちぢみおり)をふまえた島村の話が続きます。
「尼さん達もこれから冬籠りだね。何人くらいいるの。」
「さあ。大勢でしょうよ。」
「尼さんばかりが寄って、幾月も雪のなかでなにをしているんだろうね。昔この辺で織った縮でも、尼寺で織ったらどうかな。」
物好きな島村の言葉に、うどん屋の女は薄笑いしただけだった。
島村は駅で帰りの汽車を二時間近く待った。弱い光の日が落ちてからは寒気が星を磨き出すように冴えて来た。足が冷えた。
小出駅での寒気の表現はさすがです。新感覚派と言われる所以(ゆえん)でしょう。本町通りの雁木は、現在、アーケードにその姿を変えてしまいました。しかし、少し北にある羽根川通りには、昔ながらの雁木が今でも残っています。石畳の残る雁木通りをゆっくりと歩けば、しばし主人公の島村になった気分で、小説「雪国」の世界に浸(ひた)れます。
三島 由紀夫
「沈める滝」で描写する魚沼
「沈める滝」・・・奥只見ダム建設現場を舞台に、石と鉄だけを愛する青年土木技師・城所昇と人妻・菊池顕子との人工的な愛の創造と、悲劇的結末を描いた小説。
川端康成は、三島由紀夫の結婚に際し、媒酌人を務めました。その三島も、川端と同じく小出の通りを小説「沈める滝」の中で描いており、小出町がK町として出てきます。いわば師弟が描写した小出の通り。三島文学では、その見る目も変わります。
主人公の昇がダム工事のための半年にも及ぶ越冬を終え、6月初旬の小出の通りを歩く場面が次のように描写されています。
(略)、彼は午前のK町を歩いた。田舎町の女たちは目にしみた。
赤銅に金いろの樽(たる)をはめ込んだ酒屋の看板を、永いこと立止って眺めた。(略)
彼はレコード屋の前へ行って、今月の新譜の広告をつぶさに見た。荒物屋の前では、ひしめき並んだアルマイトの鍋の温和な輝きに感動した。
町というものは、ただの人間の聚落(しゅうらく)ではなかった。それは人間の作った最も親しみやすい一つの思想だった。
昇はまたとある仕舞屋(したてや)の縁先で、ミシンを踏んでいる女を見た。(略)。女は小肥(こぶと)りしている。若い。けんめいにミシンの上へかがみ込んで、何か白い布を両手で押さえて、ずらしている。ミシンのあらわな金属の部分が光る。女は空いろのスウェータアを着、共色のスカアトを穿(は)いている。ミシンの下部に、踏板を小刻みに踏み立てている太い健康な素足が見える。その動きがあまり激しいので、膝(ひざ)の上ではいつも空いろのスカアトがはためいているのである。北国の女らしいその白い脚(あし)の肉は、たえず動いたために、昇がそこを離れたのちも、目のなかにちかちかする幻覚を残した。
ミシンを踏む若い女の描写から感じられる健康美は、前年の作品「潮騒」の明るさからつながって来ているのかも知れません。
三島が魚沼を取材に訪れたのは昭和29年でした。三島は、銀山平にある電源開発須原口事務所に尊大(そんだい)な態度で現れ、職員の度肝(どぎも)を抜いた、ということです。
三島は四季の魚沼の自然にも卓越した表現力を発揮します。山の斜面に白い花を一斉に咲かせる辛夷(こぶし)(実際の種類はタムシバ)を見て、次のように描写するのです。
南むきの、雪のあらかた消えた斜面に、昇は葉のすこしもない枝々から、白い鮮やかな花を一せいに咲かせている辛夷(こぶし)を見た。大きくひろげた梢(こずえ)の先々に花をつけたさまは、枝付燭台(しょくだい)のようである。
冬のあいだ黒い幹の中に貯えられた燈油が、急に点火されて、白い焔をあげて、一せいに燃え出したように見えるのである。
枝折峠の長峰には、小説の一部が刻まれた三島由紀夫文学碑が建立されています。眼前に迫る越後駒ケ岳の山容を描写した一文が刻まれており、揮毫(きごう)は中家の水墨画家・大島月庵氏です。
駒ケ岳は孤独な肩を
そびやかし、
空の青い深い静けさを、
その存在で護って
立っているように見えた。
地上的なものに触れて低い山々は紅葉しているのに、
この山ばかりは
地上にただ基底を託して、
半ば展開に属していた。
それは一つの
不動の思想であった。
枝折峠にある三島由紀夫文学碑。
石碑のシルエットがあたかも越後駒ケ岳のようだ。
Interview
三島が歩いたしっとりとした町
中林静一さん(故人)
私は、三島が来町した当時、小さな酒屋を営んでいたんです。私の家の2階には、電源開発の奥只見建設所長の鈴木勇さんが下宿していました。三島は、この小説の取材に協力を求めて、同じ東大卒の鈴木さんを我が家に尋ね来られたようなのです。作品の中に出てくる林技師長のモデルが鈴木さんだと思います。小説の主人公が眺めていたと思われる樽の看板は確かにありました。ウイスキーの木の樽の小口のところを輪切りにしたデザインで、古い樽の感じが実に良く出ていたことを覚えています。
あの当時の小出町、特に三島が歩いた本町通りは、古い低い木造の店々が軒を連ねる、のどかな、それでいてどこか大工事の基地の町の活気がそこはかと感じられるしっとりとした町でした。三島の作品に出てくる金物屋の伊久さんや、佐藤レコード店は、もちろんあったしね。『ミシンを踏んでいた小肥りの北国らしい白い脚の女』は誰だったんだろうね。想像は際限なく駆けめぐるので、興味が深まりますね。
深田 久弥
「日本百名山」と「山恋の詩」
「日本百名山」・・・登山家で文筆家だった深田久弥が、日本列島の山から名山百座を選び、それぞれを主題として記した百編の随筆集。
三島が描いたと同じ越後駒ケ岳を、深田久弥は「日本百名山」の中で、「魚沼駒ケ岳」として紹介しています。
そして、小出からは、中ノ岳を中央にして、右に八海、左に駒、三つの山がキチンと調和のある形で並ぶ。ここで初めてわれわれは魚沼三山という名称の当を得ていることを合点する。多雪の地であるからそれらが純白に輝く時の偉観は、二千米の山とは思われない。(略)、私があえて三山の代表として駒ケ岳を挙げたのは、山としてこれが一番立派だからである。(略)、そこから水無川を距てて見る駒ケ岳は実にみごとである。中ノ岳の丸みをおびた柔らかい山容に引きかえ、駒は切り立った大峭壁の上に大きく立っている。
また、平ケ岳も百名山として選ばれ、昭和37年頃に登山した深田は、その印象を次のように描写しています。
平ケ岳は、日本百名山を志した最初から私の念頭にあった。あまり人に知られていないが、十分にその資格がある。(略)
長く平らな頂上は甚だ個性的である。(略)
会津駒から、燧から、至仏から、武尊から、この平らな頂上を眺めて、私はいつかその上に立ちたいと願っていた。しかし、それはあまりに遠すぎた。
深田久弥は、魚沼の山行きから帰った直後、次の四行詩を詠みました。
山の茜(あかね)を顧みて
一つの山を終わりけり
何の俘(とりこ)のわが心
早も急かるる次の山
この詩は「山恋の詩」と呼ばれており、その詩額が小出島の清水川辺神社境内にある「こまいぬ荘」に飾られています。これは未丈ケ岳登山の前の晩に行われた講演会の際に、依頼されて深田が揮毫(きごう)したものです。
深田との山行仲間の一人である松原良一さん(小出島)から、山恋の詩と小出をぜひ結びつけてみたい随筆があるとのことで、次の一文を紹介していただきました。
今時珍しい古風な料理屋がある(略)廊下の庇屋根の上で飽くほど魚沼三山を眺めた(略)白銀の山は霞むように和らいで、夕方近く茜(あかね)さす青空に優しい線を広げていた。
なるほど、山恋の詩は、そのエピソードとともに、松原さんのおっしゃるとおり、まがうことない小出からの眺め、茜さす魚沼三山をイメージされてのことであった、と確信できます。
その他の魚沼ゆかりの作家
冬のこの時期、越後駒ケ岳は白銀に輝いてその威容を私たちに示しています。二人の作家が描写したその文を思い出しながら、しばし眺めてみるのも一興かと思います。
ご紹介しました3人の他にも、まだ魚沼ゆかりの作家はおられます。
開高健は昭和45年に銀山平を訪ねました。その足跡は、銀山平船着場のメモリアルコーナーや石抱橋のたもとの文学碑で偲ぶことができます。食通の開高は、「木の芽の巣籠(すご)もり」が大好物で、大どんぶりで平らげた、との話も伝わっています。
もちろん、小説「徳川家康」で有名な山岡荘八は、佐梨出身であり、文学碑が小出公園に建立されていることは周知のとおりです。文豪であり酒豪でもあった山岡荘八。そのふるさとにおける数々の武勇談、そして文学碑建立にまつわる逸話については、またいずれかの機会に・・・。
参考文献
新潮文庫「雪国」 川端康成著 (株)新潮社発行
新潮文庫「沈める滝」 三島由紀夫著 (株)新潮社発行
「日本百名山」新装版 深田久弥著 (株)新潮社発行
若月忠信「新潟名作慕情(22)三島由紀夫『沈める滝』」
(新潟日報掲載)
山歩き叢書「山歩」 日本山岳会々員 松原良一紀 山吉書房
写真提供
渡辺隆さん(稲荷町) 松原良一さん(小出島)
引用元:市報うおぬま 2008年2月10号
※記事中の写真は、引用元記事の写真を参考に2023年に改めて撮影し掲載しています。
※文章中の金物屋「伊久」さんは現在も魚沼市小出島にて営業されています。