奥只見の歴史について

奥只見の歴史

奥只見は新潟県および福島県境を流れる只見川上流地域に位置しています。

もともと奥只見は、奥只見地域の中でも只見川左岸側、恋ノ岐側川、中ノ岐川、北ノ岐川を囲む山々の一帯を「銀山平」と呼び、かつては銀の採掘場として栄えました。 

その歴史は古く、1641年(寛永18年)に遡ります。

地元農家がたまたま只見川で銀鉱石を発見したことをきっかけに幕府直轄の銀の採掘場として経営されることとなり、大いに賑わいをみせました。

最盛期には民家1000軒、寺院3寺の立派な鉱山町ができたと伝えられていますが、採掘量の減少により1860年(万延元年)に閉山となりました。

 

時代は進み、1962年(昭和37年)になると奥只見ダムが建設。

奥只見ダム建設の背景には、第二次世界大戦終戦後の国の復興に、発電地域の開発が国家的課題となったことが影響したといわれています。

銀の採掘所として賑わいを見せた街並みは、今では奥只見湖湖底深くに水没していますが、坑道事故で犠牲となった犠牲者の供養塔や砕鉱に用いた巨大な石臼、手洗い鉢などが傾城沢の「十二山神社」に祀られています。

(奥只見湖遊覧船から見た十二山神社)

 

 

奥只見シルバーラインはなぜ作られたの?

シルバーラインは奥只見ダムの建設時の資材搬入道路として作られ、名前の由来は江戸時代に銀の鉱山が栄えたことから付けられています。

奥只見ダム建設事業は当時の金額で約400億円、そのうちの10%(40億円)がこの道路の建設費として充てられたビッグプロジェクトでした。

奥只見ダム建設にあたり、新潟県側か福島県側のどちらかに資材搬入用道路の建設が必要とされていましたが、新潟県側には旧来の道路(枝折峠)があったことから、圧倒的に利便性が良いとされ、新潟県側での工事が決定したのです。

 

奥只見シルバーラインは入口から出口までの高低差が約500メートルと言われ、中でも12号トンネルの水平を示す黄色いラインは8%もの勾配があります。

山頂に向かうにつれ、でこぼこした壁面が現れてきます。これは当時は重機が無かったため、ダイナマイトで岩を崩し、人力で岩を運ぶという素掘り(手掘り)をした証拠。

何よりその痕跡を目の当たりにできるのは17号トンネルの緩いS字カーブです。

これは両側から掘り進め、わずかにずれた合流地点を修正したことを示しています。

(素掘りでも、これだけしか誤差が出ない!当時の技術の高さが伺い知れますね!)

(バス車内から撮影した、S字カーブ)

 

いにしえの道【銀の道】

【銀の道】は平安時代末期、御妃をめぐり平清盛との恋のさや当てから都を追われ、この地に流れ着いたと伝えられる尾瀬中納言三郎房利が、尾瀬へ逃げのびた道としての伝説を持っています。

この伝説から約500年後、銀山が発見され、銀を運ぶ唯一の道として活用されるようになりました。

銀山最盛期には1万数千人が行き来し、人の流れが絶えることはなかったそうです。

この【銀の道】は遊歩道として整備され、現在ではトレッキングコースとして利用されています。

銀の道のコース詳細等はコチラ魚沼地域振興局 企画振興部HP